花見山公園2代目園主 故・阿部一郎氏の生涯花見山とともに歩んだ人生
養蚕農家から花き農家へ
福島周辺(信達地方)では、江戸時代から養蚕業が盛んに行われ、阿部家でも養蚕を営んでいました。一郎氏の祖父は事業家で養蚕の他にも、山で伐採した木を売ったり、15軒ほどの長屋を持ち、賃貸業もしていました。
大正8年に一郎氏が生まれるころまでは事業は順調でしたが、大正10年ごろの不況や金融恐慌により業績は追い込まれ、一家に大きな打撃を与えました。田畑はもとより、家までが人手に渡ってしまったのです。幸い家には住み続けることができましたが、その日暮らしを守るために山から花を取ってそれを売る生活が続いたといいます。そのような中にあって、何とか家の前の山林1ヘクタールを買い入れることができ、開墾を始めました。しかし、土地がやせていて野菜や果物などは育たず、仕方なしにと花を植えることになります。これが花見山公園の第一歩になったのです。
その後、花の生育に取り組むものの、当時の福島には同業者も無く、初めての阿部家では失敗が続いたそうです。一郎氏は家業の発展を志し、昭和七年、農家の後継者を育てる信夫農学校(後の福島農蚕高、現福島明成高)に入学します。
花見山公園2代目園主
故・阿部一郎氏
胸に刻まれた信農魂と
開墾の日々
一郎氏が農業を営む上で支えとなった事の一つに、当時の信夫農学校の荒川靖校長による「信農魂」という言葉があります。「信農魂」とは、「商人に商魂があるように、農民には農民魂が大切だ。どんな時でも、なにくそと頑張ることだ。努力だ。頑張ってくれ。」という教えです。「ばかにされない農業がしたい。堂々と胸を張って農業がしたい。」と思っていた一郎氏はこの言葉に感銘を受け、「生涯忘れられない言葉」として挙げています。
昭和10年の3月に信夫農学校を卒業してからの一郎氏は、1日中雑木山を耕し花を植えるための畑を作りました。当時の農業はすべて人力で行っていました。木を切って根を起こすという重労働を、機械を使わず行うことは容易ではありません。1日1坪、良くできても3坪程度のペースでしか耕すことができませんでした。それでも雑木山に新しい畑ができた時の喜びは大変なものだったと振り返っています。また、当時の事を「不平不満はいいませんでした。若いうちに貧乏を経験するのは良いことだと思います。苦しみの先には必ず幸せがあります。」とも語っています。
開墾当時の花見山公園山頂付近
(昭和30年頃)
戦争体験とさらなる決意
昭和14年、信夫農学校を卒業してから開墾に全力を注いでいた一郎氏にも、兵役は回ってきました。
現在でこそ兵役というと重く暗いイメージがありますが、教育勅語で育った一郎氏は特に抵抗を感じることなく、当時はむしろ当たり前のこととして捉えていたそうです。
戦況が悪化する中、4年近く中国での戦闘を経験した一郎氏は、昭和18年の12月に兵役を解除され帰還しました。
「戦いの場はいかなる時でも地獄そのもの。生きて帰れたことをありがたいと思う一方で、戦死した数多くの同僚とその家族に申し訳ないという、割り切れない思いであった。」と当時の事を記しています。その後、昭和20年に2度目の招集がかかり、4月に入隊しましたが、終戦となり同年9月に無事に復員することができました。
戦争を体験して平和であることがいかに大切かを痛感した一郎氏は、さらに農業に打ち込むことを決意します。
花見山公園の誕生
戦後は阿部家一丸となって家の復興を目指しました。
目の前の山にきれいな花が咲くことが、改めて喜びになっていきました。戦後の混沌とした時代に、暑さ寒さに耐えて咲く花々の美しさは、将来への希望を想う大きなはずみになったのです。
昭和30年代に入ると、山は花が咲き誇ってきれいになっていきました。そのころから阿部家を訪れる人たちから山を見せて欲しいという声が次第に聞こえてくるようになります。そこで、自分たちが花で心が癒されるのと同じく、人々の心も癒されるはずとの想いから、昭和34年4月、一般の方に自由に花を見てもらおうと「花見山公園」が開放されました。
花見山山頂から見た福島市の様子
(昭和30年頃)
写真家故・秋山庄太郎氏との出逢い
一郎氏が花見山公園を訪れた多くの人の中で、最も思い出に残る人物として挙げているのが「福島には桃源郷がある」と称賛してくれた写真家の故・秋山庄太郎氏です。一郎氏は春になり山いっぱいに花が咲くと、必ず秋山先生の顔を思い出したといいます。
秋山氏は昭和50年頃から、福島市の写真愛好家のグループの招きで福島市を訪れるようになり、昭和54年の春、初めて花見山公園を訪れ、以来毎年撮影にきてくださいました。また、花見山公園で撮影した様々な作品を写真集などで発表し、花の名所として花見山公園を全国に紹介してくださいました。
一郎氏は、自分の農業生産の畑というだけで花見山公園を閉ざしておいたならば感じられない喜びを、秋山氏との出逢いを通してより実感されました。
1年間の養生・・・そして再開園
東日本大震災の後、花見山公園は1年間休園しました。
花見山公園を開放しないことは、一郎氏にとって大きな決断であり、身を切られるような思いだったといいます。しかし、震災をきっかけに「弱っている花の声に耳を傾けてこなかったのではないか。」という想いが胸にこみあげ、休園して花や樹木を養生させるという結論に至ったのでした。
それから再開園までの間に「ぜひ来年は開放してください」という大勢の声を受けた一郎氏は、改めて花見山公園の役割を見つめることが出来たそうです。花見山公園を開放したときの想いの原点に立ち返ることができた一郎氏は、養生から1年後、花見山公園を再び開放しました。
冬の厳しさに耐え忍んで咲く春の花の中に、人間の本来あるべき姿の答えがあると感じていた一郎氏。これからの時代に花見山公園を守り続けることの大変さを考えながらも、後継者たちへ多くのことを引き継げるよう、残された時間を大切に過ごしておられました。花々を限りなく愛し、花見山公園に生涯を捧げた阿部一郎氏に心から感謝するとともに、ご一読いただいた皆様に氏の想いが少しでも伝われば幸いです。
笑顔で花に接する故・阿部一郎氏
毎年多くの観光客が訪れる花見山公園
花見山公園初代園主
父・阿部伊勢次郎氏への
尊敬の念
阿部一郎氏は、父・伊勢次郎氏について、「農業人としては素晴らしい先見性を持った人。ち密に企画して行動する人で、自分は到底及ばない。特別な学問を受けたわけではなく、努力と生活の中から知恵を生み出した人」と記しています。
句を詠むのが好きであった伊勢次郎氏。一郎氏が新聞紙面上で紹介した句には、花見山へ強い想いを感じ取ることができます。
花木を売りに行く父・伊勢次郎氏
- 今日もよし 明日も亦(また)よし 花見山
- もろひとの 知恵に咲いたり 花見山 明日の希望の 種を生ませて
- 五十年 夢にえがけし 花見山 今思い出を しのぶうれしさ
- ひとすじに 花を愛でつつ 五十年 世の安らぎを 花に求めて
- 限りある わが身をみつめ 振り返り 花見の山の 限りなき春